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ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(20)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

55.  f0096068_628931.jpg日本からの来客を案内して、 リオのカーニバル を観に行った。

この時期、 カーニバルは全国的な行事であり、 各地域でカーニバルを行っている。


f0096068_6322074.jpgブラジルのカーニバルは2つのタイプがあり、リオのように各チームが、 テーマを決めて競技して、 優勝を競うあう採点評価の方法と、




f0096068_635121.jpgバイヤ州サルバドールのように近隣の住民が皆参加して 楽しむやり方の二種類がある。





f0096068_6374440.jpgリオのタイプはカーニバル専用の開催場所 でやるが、サルバドールのようなタイプは市内の道路を練り歩 いている。



f0096068_644283.jpgリオのカーニバルは、世界的に有名なだけあって、1チームの人数が8,000人~10,000人の規模だ。
1チームの通過に1時間ほど掛かるのがリオのカーニバルだ。
このような形で何チームも通過するので、夜8時から朝7時ごろまで12時間ほど掛かるのも分る。
これが二晩続く、その間我々は朝から寝て夜に起きて観る事になる。

この期間は、海外からの見物客も多く、リオ市内のホテルは一ヶ月以上も前の予約なしでは宿泊が出来ないほど全て満室になる。

アマゾン・ベレンのカーニバルは規模こそ小さいが、リオのタイプのカーニバルだ。
ベレンのカーニバルなら、1チーム2,000人程度の小規模で、カマロッチ(一角を借切りの部屋)で見学しながら、チームと次のチームの行進の間の待ち時間に、仲間と麻雀して時間潰しをしながら待っていた。
目の前をチームの通過が始まると一緒にサンバのリズムで踊りながらの見学になる。

カーニバルの時期は、土曜日から翌火曜日までがカーニバル期間で、学校も企業も休みになっている。

リオではこのカーニバル期間に数百人の死者 が出ると言われているが、一方、 この期間に妊娠する女性も多く、人口的には増加だろう。
何処のカーニバルも観客は楽しく騒いでいるが、日本人の観光客集団はサンバのリズムに乗りが悪く、遠くで見ていても静かに観ているので、その一団が日本人だろうと想像できる。

56. アマゾンの原生林 の中で宿泊した。

f0096068_6495242.jpg宿泊はブラジル人の住居だが、電気もない森の中だからランプの生活だ。
電気が無い生活は、日没で寝て、日出で起きる生活だ。
水道も無いので、 風呂は森林の中の小川で水浴びだ。
小川での水浴だから、日没前に済ませる必要がある。
水浴準備で、家の軒先で靴下を脱いだら、いきなり「マルイン」 と言う目に見えないほど非常に小さい虫に襲われて、 一瞬にして50箇所ほど蒸れた足を咬まれて、痒い・痒い。
よく見ると無数の「マルイン」が足の周りを飛び回っていた。

急いでタオルと石鹸をもって、その家の娘さんに案内してもらい小川に飛び込み、身体を洗うことにした。
娘は近くの土手に座ってこちらを見ながら、終るのを待っている。
ただ、水中の丸太の上だから、苔で滑って中々バランスを取るのが難しい入浴だった。
終ると娘の案内で帰宅し、簡単な食事を終えて、カシャーサを飲みながら、 軒下に吊るしたヘッジ(ハンモック)に潜り込んで寝る。
夜は冷えるので下着のシャツも着てタオルケットを掛けて寝たが、夜中に背中を蚊にやられた。
布地のヘッジと下着のシャツを通して背中を刺されたのだ。
ここの蚊は、こんなに長い針を持っているのか!!!

翌朝は日出で目覚めだ、 爽やかで気持ちの良い~、森の朝だった。

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by wagahai_tt | 2009-06-29 07:03 | 印象深い事柄 | Comments(4)

ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(19)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

53.  ゴルフ場で友人の糖尿病が発覚した。

f0096068_653545.jpgと言っても、ゴルフ場で糖尿病の血液検査があったわけではない。
いつもの様にハーフ後の休憩時間にビールを飲み、普通に仲間とプレーをしていただけだ。





ビールを飲んだ後のプレーだから、途中で尿意を感じたが、 アマゾンの9ホールのゴルフ場には途中にトイレが無い。
そんな時、男性プレーヤーは誰でもすることだが、コース脇で立ちションだ(女性プレーヤーには少々過酷だが)。
その時、 なんと小便にアマゾンの蟻 が集まって来たではないか・・・。
蟻の集団も次第に多くなり、 本人も驚いた。

f0096068_6572029.jpgアマゾンには小さな赤蟻から葉切り蟻や体長4cmにもなる巨大な蟻 まで色んな蟻がいる。






後日、病院で検査をしたら糖尿病だった。
それまで、本人も気付いていなかったようだ。


f0096068_731846.jpg ブラジルは肉をよく食べる、ステーキも一人前400gだ。





f0096068_751338.jpg シュハスコ料理は、岩塩だけの味付けだ。





コーヒーは非常に甘い、コカコーラも日本に比べたらかなり甘い。
日常生活の中に、甘さと辛さが同居している。
毎日こんな食生活を繰り返していたら、糖尿病も理解できる。

でも、 蟻が糖尿病を教えてくれるのが、アマゾンらしいではないか。


54.  f0096068_7113511.jpg世界で最も美しいと言われるモルフォ蝶。

アマゾンの緑の森林の中を飛んでいるブルーの羽が美しい。


赴任当初、友人家族と子供たちを連れてよくモルフォを捕りに行った。
ブルーの網を林の中で振り回しているとモルフォが出てくる。
ブルーの蝶が縄張りに侵入したと思うらしく、 ブルーの網を追いかけてくる。
それを網で捕獲するのだが、早く飛ぶので中々捕まえられない。
子供たちが林の中を走り回って、やっと一匹捕まえた。
近くで見ると本当に美しい蝶だ。

子供達は競争して捕っていたが、 親達もそれなりに必死だった気がする。

だが、 自然の林の中を飛んでいる蝶の方が、やはり美しい。

モルフォが、子供たちとのいい思い出を作ってくれた。

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by wagahai_tt | 2009-06-25 07:31 | 印象深い事柄 | Comments(10)

ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(18)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

51.  構内銀行建設迄は、銀行で現金を引き出し、従業員の給与を封筒詰めにして現金で支払っていた。
この現金引き出しは、私が自ら運転して銀行に行き、現金を引き出して帰るのだが、警備として保安要員を連れて行っていた。
f0096068_6303158.jpg 拳銃だけでは不安になりショットガンを携行しての警備をつけた。
銃身の長さ50cmのショットガンだが、散弾なので至近距離で撃てば、人間の頭も吹っ飛ぶ威力だ。

これでも社員達が不安がり、私の車に無線をつけた。
保安本部との交信だけではなく、私の車の後ろを追尾するもう一台の二人組みの保安要員の車とも交信していた。
出金後銀行を出る時、右に行くか左に行くかを、外で待機している追尾の車に暗号で無線連絡していた。
運搬途中も現在地を本部と交信しながらスピードアップしての帰社だ。
会社の入場門に近づくと「鉄の門扉を開けて待機するように」、とも連絡していた。

そんな無線の周波数は国の電波局から許可され与えられたものだ。
この周波数で交信していたが、ある日近隣住民から、
「お前達の交信会話が全てテレビに雑音として入るよ」
「なに!!なんで入るのだ」

無線の周波数とテレビ電波の周波数が非常に近くて混線していたようだ。
至急周波数を変えて対応したが、 これもブラジルらしい。

我々の命がかかっているので、笑うに笑えない話だが・・・。


52.  ブラジルで風邪をひいた。
早速医者に行き処方された風邪薬を処方通り飲んだ。

翌朝目が覚めたら何かがおかしい、 鏡を見ると顔がジンマシンで腫れ上がっていた。
顔だけではない、全身ジンマシンだ。しかも頭のてっぺんから足の先までジンマシンだ。

又医者に行った、 今度はジンマシンの注射だ。
この注射が効いたのか二日でジンマシンは良くなったが頭の先から足の先まで全身が一皮剥けた。
これには驚いた、顔も身体も足も全身がきれいに一皮剥けた。
かなりきつい風邪薬を処方されたようだ。

ブラジルの医者は目的に対しては強力な薬を処方する。
全く副作用を考えていない。

一般的に庶民はお金も無く、政府系の医者にかかるが、毎日長蛇の行列だ、朝一から外に並んでいても、診察は昼一になることが一般的だ。
母親も仕事があるので、毎日は無理だ、そこで医者も強力な薬を処方するようになったのではないだろうか。
患者の容態が一発でよくならないと、患者の方からその医者を敬遠する傾向があるためでしょうね。
現地では一発で症状を改善するのが、医者の腕だ。
一発で治るのは良いが、副作用も考えて欲しいね。

このジンマシン以降、私の体質も変わったのか、よく薬によるジンマシンが出るようになった。

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by wagahai_tt | 2009-06-21 06:58 | 印象深い事柄 | Comments(2)

ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(17)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

48.ブラジルのハイパーインフレ時代の企業会計制度は、 コレソンモネタリアと言う価値修正制度で、インフレ利益を控除していた。
優れたこの制度が無ければ、企業経営は成り立たなかったであろう。
その上、インフレ利益で税金ばかり支払う羽目になっていたであろう。

この制度の特徴は、バランスシート(B/S)の流動性資産や流動性負債勘定は日々インフレの影響を受ける事になるが、 固定資産や資本勘定 は全くインフレの影響を受けない。
そこで、固定資産や資本勘定は、 政府が発表する一定のインフレ指数 で各々修正する。
一般的に固定資産勘定より資本勘定の方が大きいので、同じ指数での修正ではバランスシート上では損失が発生する。
この人為的に発生させた損失を損益計算書(P/L)に反映させて、インフレ利益を調整する方法だ。
例えば、100%インフレ指数の時、固定資産100を100%修正して200にし、資本勘定150を同じく100%修正して300にして、200-300=-100と言う損失を人為的に発生させる。
これを決算に反映させてインフレ利益を控除する方法だ。

この制度で、当時のインフレ時代を切り抜けることが出来たが、今はインフレも非常に小さくなり(年間10%程)、この制度自体が無くなった。


49.ブラジルは国土が広大なので、インフラ部分に多少遅れがあったようだ。
経済成長と電力供給がアンバランス になった結果、ブラジル全土で電力不足となり、 2001年7月に全国的な節電計画が発表された。
北伯パラ州には、前年比15%の節電を義務付けて、内11%が工業部門の節電義務だった。
一般家庭を巻き込んでの節電計画で、 
未達成の場合は、罰金を払うと言うそれなりのペナルティーがあった。

企業は、各社操業をダウンさせて対応したり、当社のように発電設備2基を投資して対応したりと、頭を悩ませた時期だった。
国家的な電力不足で危機に陥るとは、誰も思ってもいなかった。
それだけに節電義務が発表された時は驚いたものだ。

当然、この非難の矛先は連邦政府(国政)に向けられたが、国民としてはどうしようもないことだった。

我家では、前年、 洗濯物を乾燥機で乾燥させていて、 電力の無駄使いが大きく、前年比で見ると何等策を講じなくても、目標を達成できた。

こんな反省を含めた、記憶に残る経験だった。

50.サッカーのワールドカップ が始まると、開催国がどこであれ、ブラジル国民の盛り上りは凄い。
特にブラジルチームの試合となると、混雑していた市中が閑散とする。
開催地を問わず、それだけ全国民がブラジルチームを応援しているのだ。

会社の従業員も例外ではない。
試合の時間帯にもよるが、時差のある国なら夜中に試合があり、時差が無ければ同じ時間帯に試合があり、従業員達が試合を見たがる。
それが仕事時間の試合なら大変だ。誰も仕事をしないし、仕事が手につかない。こんな状態では、労災事故も起こりかねない。
そこで、 各職場にテレビを置き特別休憩時間を設けて観戦させたり、時間にもよるが早目に帰宅させたり、朝一番からの試合の場合は特別休日にしたりと、その都度対応していた。
もちろん各職場でのテレビ観戦は、 我々各駐在員の自宅から運んだテレビで、職場で見せたものだ。
これが4年毎の光景だった。

更に驚くことには、ワールドカップが近づくと、近隣住民が道路を通行止めにしてアスファルトの路上に大きな絵を描いていた。
これが上手い絵だったのでわざわざ見に行ったものだった。

日本では決して無い、 こんな光景も長閑で良いものだったよ。

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by wagahai_tt | 2009-06-17 07:31 | 印象深い事柄 | Comments(2)

ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(16)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

45.スーパーマーケット での買い物は、買った品物を駐車場までスーパーのボーイが運んでくれた。
身体の不自由な人や、老人には助かる嬉しいサービスだ。
無料でもいいが、チップとして一回に50円~100円を払うことになる。
幾ら払っても彼等は文句を言わない、 彼等はスーパーの従業員だ。
このボーイの対応が素晴らしいのは、 運んだ品物は車のトランクに置いてくれたり、近場で歩いて行った人にはアパートまでスーパーのカートで運んでくれたりだ。

特にハイパーインフレ時代は一度に一か月分を買う 傾向があるので、大きなスーパーの手押しカートが満杯になっていた。
このボーイは、荷物を駐車場や近場のアパート迄運ぶ為に雇われている従業員だ。

野菜や果物を沢山買うと重くなるので、我々健常者でもついつい彼らを使うことになる。
野菜にもよるが、一般的な買い方は、値段のついた物を各々篭に放り込んで買うが、単一品のリンゴやレモンや玉葱等は、 良い品物を選んで、自分で好きな量 だけ袋に詰めたものを、秤で重さを計って出てきたバーコードを袋に貼り、レジで支払をする。

いずれもこれらのシステムは、現地のスーパーの良いシステムだったよ。
バーコードの値段が正確かどうかは別にして・・・・。


46.アマゾンでは「ピコッタ」と呼ばれるホロホロ鳥。
この焼き鳥が非常に美味い。

f0096068_73934.gif ピコッタ は北アフリカ地方を原産として、熱帯地域の森林などを棲家にしているようだ。
群れで生活をする鳥のようだが、アマゾンでこの鳥の群れを見たことが無い。
アマゾンにいるピコッタは家畜用のみで野鳥はいないのであろう。


このピコッタを岩塩だけで味付けして、アパートのベランダで焼き鳥にした。

これが美味くて、仲間内で大変な人気となった。
以前、植林地用の堆肥作りに豚を飼っていたが、その豚小屋に鶏を放し飼いにして、発生するハエや虫を食べさせていた。
この放し飼にした地鶏が美味いので、よく焼き鳥にして食べていたが、 この地鶏よりピコッタの味の方が一枚上だった。

こんな思い出の味「ピコッタ」を思い出した。


47.アマゾンでボーリングをした。
1980年の後半時代は、ボールを転がしてピンを倒すだけの簡単な設備で、レーンはガタガタで、しかもボールは小さめで、日本のボーリングとは似ても似つかぬものだった。

面白いのは、 ピンの向うに人の足が見えていたことだ。
ボールを投げてピンが倒れると、残ったピンを足の持ち主が急いで定位置に立てていた。二回投げると全てのピンを元の位置に立てるのもこの足の持ち主だ。
顔が見えないので、どんな奴がやっているのか分からないが、時々足が見えなくなる時があった。
こんな時は倒したピンが中々立ち上がらない。多分、 足の持ち主のトイレタイム なのであろう。

これが1990年代に入ると画期的に進歩して、 各ピンに紐がつき、倒すとこの紐でつるし上げて元の位置に置くようになり、自動化された。

80年代後半は、各レーンに一人が張り付いていたが、90年代前半はレーン全体を一人でコントロールしていた。
紐つきなので時々絡みあってもつれる時がある、 そんな時が彼の出番となる。
レーンの上を横に走って行って、急いでもつれを直してくれた。

90年代後半は更に進歩して、昔の日本に近づいてきた。

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by wagahai_tt | 2009-06-13 07:19 | 印象深い事柄 | Comments(6)

ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(15)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

43. 新車のトラックが盗まれた、 運転手が怪しい所をくまなく探していたが、 遂に見つけ出した。

警察に盗難車の捜査依頼をしたとき、
警察  :「パトカーはあるが、ガソリンが無い。ガソリン代を出してくれたら捜査するよ」
我々  :「それなら頼まないよ、我々で探すよ」
信頼できない警察を頼らずにトラックの運転手が、 盗難されたトラックを見つけ出した。   

このトラックは新車で購入した時、片側のテールランプがねじれているのを見た運転手が直そうと苦労したが、どうしても直らなかった。
この記憶が強烈に残っていて、 荷台を改装してビールを積んで走っていたトラックを、 ねじれたテールランプ一つで、 この運転手が見つけ出した。

警察を呼び調べたが、ナンバープレートは既に変えていて、その上シャーシーナンバーも削っている ので証拠が見つからない。
そこでボンネットを開けてエンジンを調べたところ、 なんとエンジンナンバーが書類のナンバーと一致したのだ。
これで盗難車と判明して取り戻すことが出来た。

窃盗団のコメントが、「日本人のトラックだと知っていたら盗まなかったのに・・」

天晴れだぞ、オラシオ君。


44.  アマゾン奥地にあるジャリ製紙会社 (米国資本)は、大きなバウサ(艀)2隻に、 製紙プラントと発電プラント のそれぞれ5階建ての建物に匹敵する工場を、 日本で組み立てて太平洋を横断してアマゾンまで運んだ。

アマゾンに到着した2隻のバウサを、 f0096068_617316.jpgメイン道路の両脇に準備したクアリクアラと言う非常に固く水中でも100年持つと言われる木材を打ち込んだ杭とコンクリートの杭を打ち込んだ数百本の杭の上に据え付けた。


この据え付け方法が素晴らしい、 アマゾンの河口は潮の干満に影響される地域で、満ち潮でバウサを杭の上に運び、引き潮で杭の上に落とし込んだ。
その後は潮を堰き止めて工場を安定させた。

この大きな二つのプラントは、日本での組み立てだけあって、 工場集中制御装置のコンピューターシステムは東芝製だった。
当時から日本の東芝が世界で注目されていたのがよく分かる。

この製紙会社は、 原材料のユウカリを植林しているが、6年伐期で輪伐していた。
製紙原材料のユウカリは、高さが6m以上になれば伐採可能で、繊維質を利用するので太さはそれ程重要ではない。
ただ、原木消費量が半端じゃなく、f0096068_6183462.jpg 植林地の面積が高知県ほどの大きさだ。
植林地の中は、 伐採原木を運ぶトレーラーが大きな荷台を3連結で運んでいる。


更に、遠距離の運搬は、敷地内をジーゼル機関車の列車を運行しており、 敷地内の遠距離は列車が運搬し、近距離はトレーラーが運搬していた。

この光景を見ただけでスケールの大きさを痛感した。

この規模でもブラジルでは第6位の製紙会社だ。

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by wagahai_tt | 2009-06-09 06:34 | 印象深い事柄 | Comments(0)

ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(14)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

40.  f0096068_65120.jpg ベレン日本人学校の運動会、 我々父兄も中に入って一緒に競技をしないと運動会にならないほど児童生徒が少ない。
当時は、 小学と中学を合わせて23名の複式学級だった。



こんな海外の小さな学校でも、 子供達は学びながら成長もする。
生徒数も少なく、 上級生が下級生 の面倒をみる縦割りの学校だ。
子供達はこの学校で社会の仕組みも学ぶ事になるのだろう。
ここでの学びが、先輩や後輩を意識し、大人を敬うことも学んだようだ。

“父兄が全面的に協力しなければ運営出来ない運動会。”

“上級生が下級生の面倒を見なければ運営できない学校生活。”

“校長以下6名の先生で、日常の運営している学校。”

この学校の運営委員を3年間務めたが、学校運営は、このような小さな学校でも大変だった。
ここで進出企業の出番となり、学校運営費の大部分を企業の負担で賄うことになる。
文部省(現、文科省)認可の日本人学校で、一部国の補助はあるものの、 現地では私立学校と同じ扱いで、 児童・生徒の父兄や進出企業が、授業料や運営費を負担することになる。

当時、笹川財団(現、日本財団)にスクールバスの寄贈を申請して許可され、子供達はドアー・ツー・ドアーで通学できるようになった。
スクールバスが各家庭を巡回しながら子供たちを学校に運ばないと、子供たちにはまだまだ危険な地域社会だった。

今は休校になっている日本人学校だが、 子供達にとっては今でも母校だ。


41.  f0096068_6185619.jpgベレン日本人学校の運営委員会事務局長をやっていたとき、 児童・生徒が学校生活の中で、事故や怪我をした場合の傷害保険に加入した。



保険会社は当時我社が取引していたコンコルジア保険会社(三井住友海上火災保険の現地法人)で、その会社の提案内容で実行することにした。

ある日保険会社から電話があり、「日本人学校で児童が怪我をして治療費の保険請求があった」と報告があった。
調べてみると、 傷害保険請求第一号が、なんと“我が息子”だった。
体育の時間に跳び箱を跳んでいて、足を引っ掛け頭を切ったとのこと。大した怪我ではないが、学校側が治療費の保険請求をしたようだ。
こんな思い出のある日本人学校跡も、 今は現地の幼稚園として活躍している。


42.  1972年、 現地に進出した当社の駐在員の子弟が通学できる学校が無く、当時の先輩達が文部省や外務省など役所を駆け巡り日本人学校設立認可を取り付け、 1974年7月の開校に漕ぎ着けた。

学校の敷地・建物とも当社が購入し、教室に改良して日本政府(外務省)に貸与していた。

その後、日本からの進出企業も増加して、入学する児童生徒も増えたが、
f0096068_6301815.jpg 小学校と中学校を併設した日本人学校の、複式学級の解消には至らなかった。



一時は日系人の子弟の入学も検討したが、子弟が中学を卒業した場合、日本の高校に入学するか、アメリカンスクールに入学するかの二者択一しかないので、この検討も頓挫した。
日本人学校はブラジル国が認可した学校では無いので、当然のことだが、中学を卒業してもブラジルの高校への入学資格がない、入学するには、改めてブラジルの小学校から行く必要がある。

こんな試行錯誤をしていたが、日本からの進出企業の撤退などで、新規に入学する児童数も激減し、遂に1996年3月に休校を決意した。

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by wagahai_tt | 2009-06-05 06:38 | 印象深い事柄 | Comments(4)

ブラジル紹介:面白い出来事・印象に残る事柄etc.(13)


ブラジル赴任当時の印象に残った話をまとめてみた。

38.  ブラジルで日系人社会の出稼ぎ が始まった時に、現地の旅行社から我々駐在員にまで、 出稼ぎ斡旋 の手紙が届いた。
旅行社が現地の日伯協会から駐在員の情報を入手して送った斡旋通知を受取った時、「我々は日本人で、しかも日本からの駐在員 だぞ」と思ったのもこの時期だ。
しかも、何故、日伯協会が、会員である我々駐在員の情報を旅行社に開示したのだ、と個人情報に対する意識の低さに 疑問を持ったのもこの時期だ。
日本の企業側も、 「何でもいいから人手が欲しい」 と言う時期だった。
その後、我々駐在員に対しても斡旋依頼通知 が届いた。
「ゴルフ場のキャディーをやってくれるご婦人を紹介すれば、一人に付き5万円の謝礼を払います」
そんなご婦人を我々駐在員が知るわけはないだろう!!
例え知っている人がいたとしても、日本での待遇も分らないのに、紹介など出来ないよ!!!
だが、この時期アマゾンからも大勢の日系人が出稼ぎで日本に行った。
その後、出稼ぎが本格化して、旅行社が個人に対して旅費・支度金・当面の生活費の融資 を行い、日本での受け取り給与で返済をするシステムを実行した。
このシステムで出稼ぎが加速されたことは言うまでもない。
出稼ぎから帰国した人が住宅を新築 したのもこの時期だ。
今の日本では、彼らもリストラされて、帰るに帰れない惨めな境遇の人もいる。
日本の都合で左右されるのも気の毒なことだ。


39.  ブラジルで、経営トップの4人にボディーガード を付けた時期がある。
命の危険を感じる事件が勃発して、連邦警察署長クリスチャンもボディーガードをつけることを勧めてくれた。
ただ、ベレンのような田舎では、車に同乗してガードできる会社は、一社のみに連邦警察が許可を出していて、他社は別の車で追尾する警備だ。
車で追尾する警備では、いざと言う時に全く力を発揮できないであろう。
そこで同乗して警備できる会社 を選んだ。
4人に各々のガードマンをつけてスタート・・・・。
各人の運転手には、ガードマン会社のレクチャーと実地訓練 が実施され、各運転手達が過酷な運転訓練を受けて来た。
朝の出勤時にアパートの玄関を開けると、そこには既にボディーガードが立っていた。
エレベーターで地下の駐車場に下りると,エレベーターの出口には、 既に運転手が車を回して待機していた。
車に乗り込むが、私の座る位置が助手席のガードマンの後ろの席 に決まっていた。
そこまで決めるのか!!!
ガードマンは拳銃携帯で、 ズボンのベルトに挟むか、大腿部とシートの間に挟み込むか、いずれにしても左脇の拳銃ホルダーから外して、いつでも撃てるようにしていた。
ガードマンも平日勤務は、暑いのに黒のダブルのスーツ だったが、休日勤務はラフな服装で、拳銃はズボンのベルトに挟んでいた。
毎朝、車がスタートすると、改めてガードマンが今日の通勤ルートを運転手に指示していた。
夜の来客との会食時も、レストランの内外を警戒しながら、いつの間にか隅のテーブルに座っていた。
だが、そこはブラジル人だ、 こんな緊張感も一ヶ月で終わりだった。
その後は、ガードマンも惰性で助手席に座っているだけの状態になったので、2000年12月までの6ヶ月間でボディーガード契約を解約した。
ガードマン会社と契約解約したことでボディーガード全員が解雇された。
解雇理由が、契約による任務期間中の彼等の給与が高く、解雇後にガードマン会社としてその給与の保証が出来ない ことが理由だった。
各ガードマンは我々の行動パターンを全て知っているので、危険この上ないことだが・・・。
そこで私のガードマンは、彼の希望でもあり保安要員として採用することにした。
その後、私の帰国を期に彼は解雇されたようだ。
ボディーガードの効果は、 私が夜遊びをしなくなったことぐらいかな・・。
こんな肩の凝る貴重な体験もした。

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by wagahai_tt | 2009-06-01 06:54 | 印象深い事柄 | Comments(2)