カテゴリ:切手( 91 )

ブラジルの切手紹介-51


ハレー彗星

1986年にブラジルで発行されたハレー彗星の切手です。

f0096068_218084.jpg

ハレー彗星は、約76年周期で地球に接近する短周期彗星である。公転周期は75.3年。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、古来より多くの文献に記録されている。前回は1986年に回帰し、次回は2061年夏に出現すると考えられている。
1986年2月9日の接近は、ハレー彗星の過去の全ての出現の中で、地球からの観測に最も不向きだった

f0096068_2183443.jpg

1986年の地球接近後もハレー彗星の観測は続けられた。1991年2月にはハレー彗星が突然光度を増したことが観測されている。この増光の原因は不明であるが、以下のようないくつかの説が考えられた。

別の天体との衝突
彗星の崩壊(太陽風の圧力などによる)
内部構造を原因としたガス噴出量の増加や発熱


その後、ヨーロッパ南天天文台 (ESO) が1994年と2003年3月にハレー彗星の姿を観測しているため、核本体が失われるような衝突や崩壊は起こっていないと推定されている。

[PR]
by wagahai_tt | 2013-01-16 02:21 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介-50


ロス・オリンピック

1984年にブラジルで発行されたロス・オリンピックの切手です。

f0096068_395790.jpg

ロサンゼルス(英語:Los Angeles)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の都市で、ニューヨークに次いで全米2位の人口規模を持ち、アメリカ西海岸を代表する世界都市の一つです。

「Los Angeles」という都市名は、スペイン語の los ángeles、すなわち、「天使」を意味しています。

ロサンゼルスオリンピックは、アメリカ合衆国のロサンゼルスで行われた第23回夏季オリンピックであり、期間は1984年7月28日から8月12日まで開催されました。

f0096068_313224.jpg

この大会は1セントも税金を使わずに行われた。スタジアムも1932年に開催された大会時のものを使っている。それまでの大会は、スタジアムの建設や環境整備などで開催都市が多額の費用を負担し赤字続きで大きなダメージを残したこともあり、1984年大会の開催都市立候補はロサンゼルスだけで、オリンピック開催は不人気だった。
税金を使わなければ、政治的介入を阻止できると、南カリフォルニアオリンピック委員会は考えたのである。

開催するために必要な費用は、
1.テレビ放映料: テレビ放映権は、それまでの常識を超える金額を最低価格として提示、アメリカ4大ネットワークのうちで一番高い金額を示したABCと約450億円で契約。放映権料を前払いとして、利息を稼ぐ徹底ぶりだった。
2.スポンサー協賛金: それまで多くのスポンサー企業がマークを使用、多種多様な活動をしたが、スポンサー数があまりにも多すぎたので、メリットが半減していると判断し、スポンサーは1業種1社、合計で30社と数を減らして価値を高めた。ロサンゼルス五輪のマークを自由に使える、というのが条件だった。コカ・コーラとペプシが激しいスポンサー争いを演じ、他業種もスポンサーに次々に名乗りを上げ、高額の協賛金が集まった。
3.入場料収入
4.記念グッズの売上
4本柱 を立てて賄った。

1980年に行われたモスクワオリンピックに、その前年に行われた「ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する」という理由で、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。その報復として東側諸国は本大会をボイコットした(表向きの理由は1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻に対する抗議)。

不参加国はソビエト連邦、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、キューバ、アフガニスタン、アンゴラ、イラン (モスクワオリンピックも不参加) などである。
中華人民共和国は中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化しアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは不参加、ロサンゼルスオリンピックは参加した。

旧ソ連・東欧圏の選手が出場しなかった中、ブラジル選手は出場して活躍した。

[PR]
by wagahai_tt | 2013-01-09 03:23 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介‐49


ブラジル航空機産業の日

1982年に発行された航空機産業の切手です。
f0096068_512566.jpg

エンブラエルは1969年にブラジルの国営航空機メーカーとして誕生した。ブラジル空軍の航空技術研究所の技術者の力によって、双発プロペラ旅客機「EMB 110 バンデランテス(別名:バンディランテ)」を開発し1972年に初飛行させた。同機は日本を含む世界中の数多くの航空会社で運航され、成功を収めた。「ブラジルの誇り」と言われた所以である。
さらに1976年には「EMB 121 シング」が初飛行し、1983年には、小型ターボプロップ機の「EMB 120 ブラジリア」と、ターボプロップのタンデム複座型練習機の「EMB-312 ツカノ」を相次いで発表した。

f0096068_522287.jpg f0096068_5306.jpg







  
EBM110                       EBM312

EMB 120 ブラジリアはEMB 110 バンデランテス同様に世界各国の航空会社に採用された上、EMB-312 ツカノもイギリス空軍などで採用されたほか、ブラジルでも練習機兼用のゲリラ掃討用COIN機として現在も利用されている。しかし、国営のためもあり社員に公務員気質がはびこり赤字経営が続いたものの、一向に体質改善に意識が向かわなかった。

ブラジル人は航空分野のパイオニアでしたが、航空機産業がブラジルで本格化したのは、1970年代のことです。

今日では、ブラジルは世界有数の航空機メーカーであるエンブラエル(Embraer)社を擁している。同社は定員数110席までの商業用ジェット旅客機の製造に関して世界をリードしている。
商業用旅客機、エグゼクティブ級旅客機、国防用航空機の設計・開発・製造・販売・アフターサービスの分野で36年の経験を有しており、ブラジルの主要な輸出企業の1つである。

サンパウロ州の首都サンパウロ市から約90キロメートルに位置するサンゥ・ジョゼ・ドス・カンポス(Sao Jose dos Campos)市に本社を置くエンブラエル(Embraer)社は中国、シンガポール、米国、フランス、ポルトガルの各国に現地法人、代表事務所、顧客用サービス拠点等を置いている。2005年12月30現在で同社は従業員16,953名、受注残高104億ドルを記録していた。

エンブラエル(Embraer)社の前身であるEmpresa Brasileira de Aeronautica S.A.(ブラジル航空機工業株式会社)の創立は1940年代に遡る。1946年にサンゥ・ジョゼ・ドス・カンポス(Sao Jose dos Campos)市に空軍技術センター(Centro Tecnico de Aeronautica : CTA)が開設されて現在の航空宇宙技術センター(Centro Tecnico Aeroespacial)に発展し、同センター内には1950年以来航空技術大学(Instituto Tecnologico de Aereonautica: ITA)が機能している。

[PR]
by wagahai_tt | 2013-01-02 05:06 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介-48


パラシュート部隊

1985年に発行された陸軍パラシュート部隊40周年の切手です。
f0096068_3393475.jpg


ブラジル・リオデジャネイロの「ファベーラ」と呼ばれるスラム街を拠点とする 犯罪組織と警察の衝突激化で、ブラジル政府は、陸軍パラシュート部隊を派遣し、“市街戦”を繰り広げ組織の壊滅作戦に乗り出した。

顔にペイントし、迷彩柄のTシャツ姿の兵士が自動小銃を手に次々とファベーラに到着し、空と陸の2方面から組織を抑え込む作戦を実行した。

f0096068_3405559.jpgf0096068_341199.jpg








  
警察側は特殊部隊や装甲車、応援の軍兵士ら約2500人規模で掃討作戦を強行した。
一連の銃撃戦でメンバー45人が死亡し、200人近くを逮捕した。
制圧後のファベーラ捜索で、大麻40トン、コカイン200キロなどを押収したという。

スラム街「ファベーラ」を拠点とする麻薬組織は、もとからの麻薬カルテルではなく、1964~85年の独裁政権時代に反対勢力を沈黙させるために動いていた準軍組織の暗殺部隊を起源とする「民兵」 と呼ばれる新マフィア勢力だそうです。

「民兵」の由来は、1964~85年の独裁政権時代に反対勢力を沈黙させるために動いていた準軍組織の暗殺部隊にさかのぼる。その後は非番の消防隊員や警官、看守などが「民兵」を構成するようになり、ストリートキッズなどを取り締まってきたが、長年、麻薬カルテルよりは「悪質でない」とみなされていた。
しかしこの「民兵」が、最近になってリオで広く支配力を強め、新マフィア勢力に成長した。2006年には、西部の数か所のスラムに浸透してカルテルを追放し、頭角を現してきた。

発表された報告によると、リオのスラムでも規模の大きい上位250か所のうち100か所以上を「民兵」が支配している。一方、リオ最大の麻薬カルテルが現在支配下に置くスラムは、わずか55か所だ。

[PR]
by wagahai_tt | 2012-12-26 03:47 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介‐47


本の日

1982年と1984年にブラジルで発行された本の日の切手です。

f0096068_662617.jpgf0096068_665396.jpg







     
1923年に、カタルーニャ地方の本屋が、4月23日が、小説『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスの命日(1616年)であり、さらにシェイクスピアの伝説上の誕生日(1564年)であって、文学に非常に縁の深い日でもあることと結びつけて、プレゼント用に本を買うと赤いバラを添えて、本を贈るという風習を広めたのが始まりです。

f0096068_611284.jpg

「世界 本の日」は、1995年11月、パリで開催されたユネスコ総会において、毎年4月23日を、「世界 本の日」とする宣言文が採択されたことによるもので、本の良さを再認識し、親近感を育むことを目的としています。また、この日は、従来「サン・ジョルディの日」としても親しまれており、愛と知性の文化運動として、日本でも23年にわたってPR活動が続けられています。

バルセロナを中心とするカタルーニャ地方では、大切な人に美と教養、愛と知性のシンボルとして、1本の薔薇と1冊の本を贈り、この日を祝います。男性は女性に花を、女性は男性に本を贈るのが一般 的で、家族や友達の間でもプレゼントが交わされます。

さて、 この「サン・ジョルディの日」は、カタルーニャの人々のアイデンティティと実に深いかかわりがありま
す。それは、サン・ジョルディがカタルーニャ地方の守護聖人であるということ、そして、獰猛なドラゴンを相手に勇敢に闘い勝利を収めた騎士サン・ジョルディの姿が、カタルーニャの自治や言語を禁止した独裁政治と闘う精神と重なったことによると言われています。

4月23日は現在では国連の国際デー「世界図書・著作権デー」に指定されています。
4月23日が偉大な文学者、ミゲル・セルバンテスやウィリアム・シェイクスピアの命日にあたるからで、彼らに敬意を表して4月23日が「世界本の日」に選ばれたそうです。

皆さんもこの機会に、本や薔薇の花を改めて手にとってみてはいかがでしょう?

[PR]
by wagahai_tt | 2012-12-12 06:12 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介‐46


ペドロⅡ世

1982年に発行されたペドロⅡ世の切手です。

f0096068_353578.jpg

ペドロⅡ世(Pedro II、1825年12月2日 - 1891年12月5日)は、ブラジル帝国の第2代でしかも最後の皇帝(在位:1831年 - 1889年)です。初代ブラジル皇帝ペドロⅠ世とオーストリア皇帝フランツⅠ世の次女マリア・レオポルディナ皇后の長男で、ポルトガル女王マリアⅡ世の弟です。ブラジル本国では一般にドン・ペドロⅡ世(ドン・ペドロ・セグンド)と呼んでいます。
1825年12月2日リオ・デ・ジャネイロ生まれのため、ブラジル生まれの君主が誕生することとなったのです。

f0096068_361464.jpg

ペドロⅡ世は学問や芸術を愛好するリベラルな君主で、フリーメイソン(友愛団体)の会員でもあり、憲法で国教と定められたカトリック教会を抑圧、新大陸で不可欠とされた黒人奴隷制の廃止にも尽力した。しかし、この政策は王政の支柱たる教会と地主層の離反を招くことになった。
ペドロⅡ世は頭が大きかったのか、学問や芸術の愛好家だったからか、この切手にはCabeca Grande(頭でっかち)と書いてあります。

[PR]
by wagahai_tt | 2012-11-28 03:08 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介-45


ミナス・ジェライスのカルモ教会(Igreja do Carmo)

ミナス・ジェライスの広場に立つカルモ教会の切手です。
f0096068_2594275.jpg

18世紀後半から19世紀初頭に建設された上品な雰囲気の教会ですが、残念なことに、内部は1999年に焼けてしまい修復したとのことです。
このカルモ教会は黒人が使用することを許された教会です。

f0096068_312374.jpgf0096068_315837.jpg    








カルモ修道院 (Convento da Ordem do Carmo)は、ポルトガルの首都リスボンにある中世につくられた修道院で、1755年11月1日、リスボン大地震で修道院と教会のほとんどが破壊され、その後再建されず廃墟となっています。崩壊したゴシック様式の教会「カルモ教会」(Igreja do Carmo)は、大地震の爪痕です。

[PR]
by wagahai_tt | 2012-11-21 03:04 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介-44


シモン・ボリバル生誕200年

1983年にブラジルで発行されたシモン・ボリバル生誕200年の切手です。

f0096068_150922.jpg

シモン・ボリバル(シモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダー・ボリバル・イ・パラシオス、Simón José Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar y Palacios、1783年7月24日 ~ 1830年12月17日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家です。

f0096068_1511133.jpg

ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、16歳のとき1799年にスペインで任官していたおじを頼ってヨーロッパに渡った。
ボリーバルは1811年にベネズエラに帰国し、3月に開かれた制憲会議で演説を行った。1811年7月に、制憲会議がベネズエラの独立を宣言した。
ボリーバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれた。

[PR]
by wagahai_tt | 2012-11-14 01:54 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介-43


ブラジルの独立

1982年に発行されたブラジル独立の切手です。
f0096068_3382139.jpg

1822年9月7日、ペドロはサンパウロのイピランガ川のほとりで「独立か死か」との、いわゆる「イピランガの叫び」を発し、ブラジルの独立が宣言された。ペドロはリオでブラジル皇帝ペドロ1世として即位し、ブラジル帝国が建国され、ハプスブルク家の黄色とブラガンサ家の緑のリボンで町は満ち溢れた。ポルトガル軍は残留したものの、ホセ・デ・サン=マルティンに仕えてペルー解放に同行した元英王立海軍の軍人、トマス・コクレーン卿の活躍もあり、マラニョンのポルトガル軍は排除された。こうしてブラジルの独立が達成された。
f0096068_3392636.jpg

ブラジルの独立はリスボンの政治家達が激しく反対した一方で、ブラジルの側近達が後押しして、若き王子の心は独立へと傾いていった。王室がポルトガルに帰還してから約1年後の1822年9月7日、王子はブラジル「帝国」の独立を宣言し、同年12月1日、自らをドン・ペドロ1世と称して正式に皇帝の地位についた。

ブラジルの独立はイスパノアメリカ(中南米大陸のスペイン植民地) 諸国の独立と比べると大きな混乱や政治的な対立を伴わずに達成された。
これは植民地時代にブラジルを包括する原初的な国内市場が成立していたことと、ポルトガル王室のブラガンサ家が帝位に就いたために、イスパノアメリカ諸国のような分裂状態には陥らなかった。
しかし、このことはイスパノアメリカ諸国が解放者シモン・ボリバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらによって16年間続けられた独立闘争により、曲がりなりにも本国出身者から政治権力を奪取したのとは対照的に、ブラジルにおいては植民地時代の権力構造と大地主の支配がそのまま継続したことにも繋がった。
既に1808年のリオ・デ・ジャネイロ遷都と共に、イギリス資本に国内市場が解放され、イギリスから莫大な投資が流入し、イギリスへの経済的従属が始まっていた。


f0096068_3412598.jpgf0096068_3415191.jpg

 






   
毎年9月7日は独立記念日として全国民が祝っている。アマゾン河口の街パラ州ベレン市でも軍隊の行進があり、軍と国民が一体となって祝っています。

[PR]
by wagahai_tt | 2012-11-07 03:44 | 切手 | Comments(0)

ブラジルの切手紹介-42


コロンブス

1984年にブラジルで発行されたコロンブスの切手です。
f0096068_684860.jpg

クリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo、1451年頃 - 1506年5月20日)は探検家・航海者・コンキスタドール(スペイン語で征服者の意)、奴隷商人。大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりです。
f0096068_694322.jpg


一般的にコロンブスの「功績」はアメリカ大陸を“発見したこと”と語られることが多いが、アメリカ大陸にはこれ以前からインディアンやインディオなどのモンゴロイド系先住民族が一万年以上前から居住し独自の文明を築いていたことを考えると、“発見”という言葉自体がヨーロッパ中心で世界を見る視点に立脚した発言と言わざるを得ません。

従って、中立的な視点では「大西洋航路の発見」、つまりヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ「航海路を発見した」というのが、その真の功績であると言えます。コロンブスのアメリカ大陸到着以前はユーラシア大陸と北米大陸の住人や国家、文明の間には相互の文化や経済、政治などに影響を与え合うほどの交流がほとんど無かったことから、「世界の一体化を促進した」とする評価もできるでしょう。

[PR]
by wagahai_tt | 2012-10-31 06:10 | 切手 | Comments(0)